ゾンビをミキサーにかける仕事の研修日報

文字が読めるようになってきた蛮族のブログ

今村夏子『むらさきのスカートの女』を読んだ

(ネタバレかもしれない)

せっかくブログを開いたのにゲームの話すらしなくなって文明指数が下がりまくってるので、読んだ本の感想でも書こうと思った。

読んだのは今村夏子『むらさきのスカートの女』。令和初の芥川賞受賞作。文明指数が高い。

内容は、街で見かけるむらさきのスカートを履いた不審な女を、ストーカー的な執念で観察を続ける主人公(自称“黄色いカーディガンの女”)の話だ。

前評判で変態的だと聞いてはいたけど、実際読むと語り手の異質さが目立つ。

“むらさきのスカートの女”への徹底した観察や、彼女と友だちになるための度を越した誘導もそうだけれど、一番異質なのは語り手が自分の話を全くしないところだ。

語り手は終始“むらさきのスカートの女”の話しかしないので、主人公の名前や職業などはそのこぼれ話として出る情報を拾うしかない。

主人公にとって、自分が家を追われかけている一大事は“むらさきのスカートの女”の状況を捕捉する一例でしかないし、街のホテルは自分が清掃スタッフとして働く場所でなく“むらさきのスカートの女”の未来の職場でしかなく、喫煙者としての自分はなく“むらさきのスカートの女”が喫煙所で見た女でしかないのだ。

群衆に溶け込み個を消す語り方は、認識されたくないというより「自分は“むらさきのスカートの女”を語るための装置なのでそう認識してください」という感じだ。

よく三人称小説を神視点というけれど、どこまでも一人称小説の語り手でしかない彼女は透明になれるはずもなく、語り手に徹しようとするほど不自然さが増す。

“むらさきのスカートの女”が徐々に巷の評価ほど不審でもない普通の女であることが暴かれていくほど、紫と黄色という補色の関係のように、反対に語り手の異様さが目立っていくのだ。

終盤、ついに“むらさきのスカートの女”と話し、語り手は初めて鉤括弧付きの発話を手にしたのに、彼女が語る“むらさきのスカートの女”物語に耳を貸す者はいない。

“むらさきのスカートの女”は「所長のアレ」「ストーカー」「最低の女」と定義されてゆき、「むらさきのスカートの女」としての存在はどんどん見失われていくからだ。

“むらさきのスカートの女”が去ってから、語り手ひとりが気づいてなかったその異様さは、最後“むらさきのスカートの女”にしたのと同じく「絶妙なタイミングで私の肩を叩いた子供」によって思い知らされることになる。

お互い補い合って黒く隠れていた補色の紫が奪われてから一気に現れた黄色のように。

何かを盗み見続けるということは、他の何かから目を逸らし続けるとの同じことかもしれない。

そういう盗み見によって生まれたのに誰にも聞いてもらえない物語は、「むらさきのスカートの女」として読まれる瞬間だけ成立する。

散々いろいろな名前で噂された日野まゆ子は“むらさきのスカートの女”になり、目立たないが不審な女でしかない権藤は(ひどく不格好な語りだとしても)“むらさきのスカートの女”を語るための装置になる。

ラストを哀しいと評した選評もあったけれど、あまりそうは思わなかった。

隠されたものへの窃視によって生まれた誰にも目を向けてもらえない語りは、隠れたとしている語り手の存在まで盗み見ることで一瞬だけ黄色いカーディガンの女”が望んだ物語になる。そういう小説だと思った。